2010年6月3日木曜日

スピリチュアル一考

小さい頃から、超能力とか魔法とかにあこがれていた。
テレパシーとか、瞬間移動とか、そういうの。

少し大きくなって思春期の頃には、
好きな男の子を想っては思念をとばす、
というのは出来ないものかと
夜寝るときによく色々やってみていたっけ。

大人になって、ようやく
そういう力は私にはてんでないんだなあーということがわかり
まあ大抵の人はそうやって平凡に日常を送るものよとあきらめたのだ。


その結論について今更、やっぱりあるかもーなんてことは
さらさら言うつもりはないにせよ
正直なところ、いわゆるスピリチュアルな力に近いものについては
もうちょっと開花させてみたいわーという興味は
いまだ持っていたりする。


そのせいなのか、どうな のか、
私は全くそれ関係でないところで知り合った人が
実はそれ関係のお人だったということが
気がつくと随分いっぱいある。

しかし、この方々はみな、まっとうにお仕事をされ
日常でそれにどっぷりということは全くなく
非常にノーマル、健全な方々であるので
私としては安心なのであるが

一方で、声高にスピリチュアルを話す人ほど
全然仕事についてもおらず
なにかそれ系の講習とか勉強とかに熱心だったりで


地に足がついてないというか
ふわふわとした妄想世界にどっぷりつかり
「お幸せ」な台詞をこれでもかというくらいに吐いている
私がもっとも苦手な人種だなあとおもわされる。

私も色々手を出しかけたが、結局やらなかった。
ヒプノセラピーも、ためしに一回受けてみようかと思って
予約までしたけど
思いなおしてキャンセルした。
もう相当昔の話だけど。


フラワーエッセンスは大学~卒業後しばらくは
安定剤代わりに使用していたが
今は全然使っていない。


そういうのよりも
海とか山とか空とか自然のエネルギーを体に感じることに積極的になり
星のめぐり、天候のうつりかわり、土地の持つエネルギー、
人の因果、偶然と必然、
そういう、当たり前にそのへんにある様々な事象に対して
興味深く見たりきいたり感じたり考えたりするようになった。

***


萩 尾望都の「11人いる!」というSFマンガ作品の中で
僧侶が、自分の故郷の星では占星術が発展しているという話をし
それを別の仲間が、あんなのはインチキだと言う場面がある。


僧侶は、一年に季節があること、朝と夜があること、潮の満ちひき、
それらはすべて星の運行によって左右されている、
我々生命体がそれらの星の影響を受けていないとなぜいえるのか、と
説明をする。

私はこのシーンが本当に大好きだ。


生命体に関わる自然界に敬意をはらい、親しみ、
その力を少しおすそ分けしてもらいながら生きる。
それはスピリチュアル云々じゃなく
人間が生命体として生きる、もっとも基本的な姿勢なんじゃないのかと思う。

まるでその力を、神様か何かからもらった特別なものと思ったら
大間違いだ。


前世だとかなんだとか、いろいろあるけれど
生きる不思議、死ぬ不思議、
生命の営み
何もかもは 不思議だらけで、それを人間がすべて解明できてるなんて
思うことはとっても傲慢だと思うのね。

そして、解明できていないものは、ないものとするのも
また傲慢だと思うのね。

不思議なものは不思議なまま、
そしてその不思議さに尊敬の念をもって
一緒につきあっていけばいいのではないのかしらと思ったりする日々。